和ゲーのススメ

「「クリエイター」と「ディベロッパー」、日本のゲーム技術者の進む道は」
http://it.nikkei.co.jp/digital/news/index.aspx?n=MMITew000020102006

 日本ではゲームの開発もしくは制作に関わっている人のことを一般に「ゲームクリエイター」と呼ぶ。ところが、この言葉、和製英語で日本だけで使われる名前であることをご存じだろうか。(新清士のゲームスクランブル)

 英語圏では、「ゲームディベロッパー(game developer)」と呼ぶのが一般的である。ディベロッパーは、開発者個人と、開発企業の場合を指す。日本でも販売元であるパブリッシャーと区別する際に、開発企業をディベロッパーと呼ぶ場合があるが、個人に使うことはなく、訳語として「ゲーム開発者」が使われる。

 というコラムを読んだ。最初は日本とアメリカのゲームに対するスタンスの違いの話かと思い、「ふむふむ」と読み進めていたのだが、どうもこのコラム、自称「識者」にありがちな「アメリカがこうなんだからそれが絶対正しい」という思考停止状態に陥っているようだ。

 一方で、ゲーム開発プロジェクトの大規模化で、日本企業が北米企業と比べ苦戦しはじめているという事実がある。この背景には、ゲームのもう一つの面である「コンピュータサイエンス」の部分が、段々と強くなってきたという状況がある。北米の開発手法は、巨大化するゲームのコンセプトにあわせてパーツを積み上げていく方法論であり、ゲームごとに無から有へとすべて作り直す「ゲームクリエイター」の手法とはまったく違う。

 そもそも、人口も経済規模もまるで相手にならない、世界一の国、アメリカと同じ土俵で戦って勝てる国などこの世界にはどこにもありはしない。そんなことは60年も前に身をもって実感している。だから自動車は小型で低燃費なものを、ビデオは高品質で使いやすいものを、アニメと漫画は独自の世界観を構築してアメリカと直接対決せずに高い評価を受けてきたのだ。逆に、飛行機やロケットなど、アメリカの得意分野と真っ向勝負した産業がどうなったかなど、いうまでもない。比較する時点で間違っている。
 ゲームも然り。世界じゅうから優秀なプログラマが大挙して押し寄せ、何十億円という予算をかけて大々的にリリースされるアメリカ産ゲームに真正面からぶつかって勝てるいい勝負ができるゲームなど日本には「メタルギア」と「グランツーリスモ」しかない。アメリカと同じことをやってその先にあるのは日本のゲーム業界の終焉だ。
 だから日本のゲームはアメリカとは異なるタイプのものを作り続けなければならない。ちょうど日本のアニメがディズニーとは違うもの、日本の漫画はアメコミとは違うもののように。「アニメ」「マンガ」に続く「和ゲー」こそ日本の進むべき道だ。アニメとマンガ、そしてたくさんの国産ゲームソフトに囲まれた環境で育った日本人にしか作れないのが「和ゲー」。
 そこで必要となるのは「ゲームディベロッパー」ではなく「ゲームクリエイター」だ。外国で生まれたものを取り入れ、さらに独自の味付けをして世界で認められるものに昇華することこそ古来からの日本の強みであり唯一生きていく道。日本人としての感性を持った開発者しかゲームを「和ゲー」にすることは出来ない。

 開発現場では、「ゲームクリエイター」が「ゲームディベロッパー」へと思考を転換することが今の時代は求められている。特に、「PS3」は「ゲームディベロッパー」の側面が前面に出ないと開発が難しいハードである。

 上のような理由からPS3は日本人が送り出すゲーム機の進化の方向性としては完全に間違っている。思考を転換する必要があるのは開発者ではなくハードメーカーだ。ハードウェアが進歩したのにライブラリがそれについていけず、そのしわ寄せがゲームプログラマに行くのは論外だ。ゲームプログラマは研究者ではなくてクリエイターなのだから、そんな暇があったらゲームをもっと良くしなければならない。PS3は開発者に本来ハードメーカーが負うべき役割を強いている時点で完全にハードとして失敗だ。PS2の時点で失敗だ*1
 天才的なプログラマと天才的なプランナーが出会う確率なんて世界じゅうから天才が集まるアメリカ以外ではゼロに等しいのだから、日本人の送り出すゲーム機として求められるのは天才的なプログラマがいなくても開発ができるゲーム機だ。プランナーは日本人の発想があれば天才でなくとも十分世界で通用することはこれまでの歴史が証明してくれる。
 皮肉なことに、そこに気がついているのは日本のソニーではなく、アメリカのマイクロソフトなんだよな。

*1:売り上げ云々の話ではなく